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Tuesday, October 20, 2009

「tamatogi」にいってきました

10月16日新大久保、The GhettoのHells Kitchinへ、ポエトリーリーディング (poetry reading)「tamatogi」を見にいってきました。入場料は無料、他にドリンクをオーダー。
詩のパフォーマーたちは、一人5分から10分ぐらいの時間で次々と登場。司会は、このイベント主催者の詩人・桑原滝弥さん。
面白かった。また見たい、と思いましたが、実はこの会場が閉鎖になるので、今回が最終回とのこと。
きっとまたどこかで。。。


Sunday, September 27, 2009

視覚障害の方々と一緒に美術鑑賞ツアーに参加。

9月25日午後6時30分に乃木坂駅に集合。友人で視覚障害のあるGさんとその奥さんと一緒に、視覚障害者と一緒にアートを鑑賞する〈MARの鑑賞ツアー〉に参加しました。
会場は東京にある国立新美術館、展覧会は〈光 松本陽子/野口里佳〉展。作品は絵画と写真で、当然触ることは禁じられており、同行する健常者が語る言葉だけで作品イメージを互いに共有していく。果たして上手くいくのかどうか疑問もあり、とにかくやってみることに。。。
最初、主催者が2人から3人のグループに分けられた。私は友人夫妻とはなれ、ブラインドのKさんとガイドのTさんのグループに入れていただいた。初対面のお二人とご挨拶して、いよいよ会場へ向った。するとそこからすでに鑑賞ツアーは始まっており、ホワイエの大空間の広さや色や光の様子を言葉で説明。そしていよいよ展覧会場へ。
この展覧会は、画家と写真家の二人のアーティストを〈光〉という言葉で関連づけているが、それぞれ画家の松本洋子と写真家の野口里佳の個展が並列されている。なので、会場入口に解説パネルがあり、その奥に二つの個展の入口が開いていた。そこでまず右側の野口里佳展へ向った。
最初に富士登山の写真。例えばある作品では、大きな石がころがるガレ場を一人がリュックサックを背負って登っている。それは白いきりの中でぼんやりと霞んでいる。画面の大きさは高さ1m以上ある長方形で、登る人物は画面の中央やや下に小さく写っており、画面の上半分は白い霧で真っ白、といった説明。
そして、松本陽子作品の場合、これは全くの抽象的絵画。キャンバスに油絵で、サーモンピンクの淡いグラデーションが渦巻く積乱雲を描いたよう。また、大きな滝壺の近くで水しぶきを浴びているような感じ、だとかいろいろと語った。
Kさんの場合は私たちの言葉と、視力を失う前に見た視覚的記憶を加えて作品イメージを構成するとのことでした。また、Kさんに感想を聞くと、やはりたくさんのいろんな種類の言葉で、つまり豊富なボキャブラリーで、語ってもらうとイメージし易いとのこと。もし先天的に盲目の方の場合、視覚的記憶がないのだがやはり頭の中でイメージが構成されるらしいと、Tさんに教えていただいた。

この体験は、言語ゲームであることが強調される。私とガイドのTさんが語る言葉から、ブラインドのKさんは作品のイメージを頭の中で想像する。ここではまず言葉があってイメージの共有が始まる。そして、互いに言葉によってイメージを膨らませる。また、見えている私たちの視覚的経験も豊かに高められていくようだと思った。
ブラインドの人の立場は、ラジオDJの言葉を聴いているリスナーである私が、時に強い臨場感をもってイメージを膨らませているようなことだろうか。しかし、彼がどんなイメージを思考しているか見ることはできない。だが、他者の思考を見ることができないのは障害の有無に関係がなく平等。共有するのはイメージを語る言葉のみであり、それはまさに言語ゲーム。



展覧会場の外で解散前に談笑する参加者たち。初対面でも一度のこと鑑賞体験を共有すると一気に親しくなることができるようだ。
参加者の皆さん、主催のエイブルアートジャパンの皆さん、どうもありがとう。

Saturday, September 26, 2009

帰宅訓練で歩いている人たちに出会った。

9月26日昼前ウォーキングをしていると、白いゼッケンをつけた人たちが新目白通りを徒歩で下って来ました。街歩きのサークルかなと思ったが、それにしては人数が多い。交差点で共に立ち止まったときに、ノボリ旗を持っている方に質問。
それによると彼らは、帰宅困難者対応訓練実行委員会が主催する訓練の参加者だとのこと。その訓練とは、もしも首都震災が発生して交通機関がストップした時、職場から徒歩で帰宅することを事前に体験しておくこと。答えてくれた彼らは、日比谷公園をスタートし、約20km先にある練馬区の光が丘を目指しているとのこと。
私は阪神大震災の罹災経験があるので、当時の神戸の三ノ宮付近の様子を思い出した。あのときと同じようなことがもしも東京で発生したら、道路は平坦でなくなり電線やガラスや様々な落下物をよけながら歩くことになる。きっと日常の何倍も疲労するだろう。アスファルト鋪装がめくれて立ち上がり1mぐらいの壁になって道路を塞いでいた場面を思い出す。
隣人や職場の仲間たちとこういうイベントを通じてより親しくなっておくことはいいことだろう。阪神大震災の直後、それまで顔を合わせることが無かった隣人たちと力を合わせて活動したことがあるが、もしも日ごろから知り合って親しくしていれば、もっと有効な活動ができたように思うから。
それと、このイベントのように東京の街を普段歩かない人たちが歩く機会を作ることはよいことだろう。なぜなら、地下鉄や電車や車で移動していると気づかないことが、歩いていると気づくことがあるから。そしてできれば、日ごろから東京の街が歩きやすくて楽しい街にしたいと思わないだろうか。また災害がなくても、お年寄りやケガをした人たちにとって意外にも歩き易い舗道が少ないことに気づかれたのではないかな。

 
 

Tuesday, September 08, 2009

第1回所沢ビエンナーレ美術展〈引込線〉に行って見た

9月6日、会場は西武鉄道の旧車両工場。駅から遠いのか思ったが、行ってみたら駅前の西武百貨店の裏にあり駅そばだった。会場は広大な工場内にあり、展示会場の建物の中は広くて天井が高く、大作が余裕をもって展示されていた。
こういう魅力的な場所が常時、芸術文化活動に使われていたら良いと思いました。例えば、ギャラリー、ミュージアム、アトリエやスタジオ、シアター、カフェなど。
この展覧会のデータはこちらの公式(第1回所沢ビエンナーレ美術展〈引込線〉)をどうぞご覧ください。
展示の他に、シンポジウム、パフォーマンスやワークショップも開催されるようだ。

このビエンナーレには次の特徴があるとチラシに記されていました。
・作家主導であること。
・展覧会テーマを設けないこと。
・作品の形体、形式、思想を限定しないこと。
・美術家のみならず、執筆者も同じ地平の表現者として参加願うこと。
・次世代が育つ現場であること。

4番目の〈執筆者も同じ地平〜〉の件は、この展覧会に約28人の批評家・学者・学芸員などの人々が執筆者として参加していることを指している。展覧会場では、執筆者たちのテキストは読むことができなかったが、今後出版される記録集にテキストが掲載されるようだ。

会場の正門。ここまで駅から徒歩約5分でした。

第1会場に展示されていた石原友明作品。金箔の木製ボードに点字で何か書いてあるが、残念がながら読むことはできない。


中央が窪田美樹作品。本物の自動車を芯にして紙でつくられた作品。第2会場。

伊藤誠作品。鏡を顔の目の直ぐ下に取り付けて視覚体験する装置。第2会場。

第3会場の様子。

増山士郎作品。アーティスト本人は夜勤の肉体労働のアルバイトをしており、このブース奥の窓の部屋で睡眠をとっていた。観客が見ている紙はアルバイト応募時の履歴書など。手前に作業着や軍手が干してあり、壁にヘルメットが架けてあった。第3会場。

第3会場を奥から見た様子。

いい感じの空間。

左の倉庫も今は使われていないようだった。

会場入口で、9月 現代アートの旅マップ 創発2009というチラシをもらった。
このチラシには、埼玉県で9月に開催が予定される美術展会場がマッピングされた地図が掲載されていた。
このチラシは、さいたま美術展〈創発〉プロジェクト を実施しているNPO法人コンテンポラリーアートジャパンという団体が発行。ウェブサイトを見ると、県内美術展のアートレビューがテキストで連載されており、この所沢ビエンナーレについてのテキストもありました。

Friday, August 15, 2008

権利 - right

譬えば訳書中に往々自由通義の時を用ひたること多しといえども、実は是等の訳字を以て原意を尽くすに足らず。
『西洋事情 二編』福沢諭吉著

 rightの名詞には、大きく分けると、道徳的な正しさという意味と、右という意味と、今日言う「権利」の意味とがある。また、オランダ語のregtやフランス語のdroitには、英語のrightにはない法律というような意味もある。
pp.155-156

 rightの法律上の意味、今日言う「権利」は、道徳上の正しさ、という意味を、少なくとも「正しさ」という意味では受け継いでいる。正当性とか、合法性などともいう。ところが、「権」ということばは、正しさとはむしろ正反対に対立する意味、力というような意味であった。
p.159

 『和英語林集成』の初版(1867年)では、「権」はこうなっている。
Ken ケン 権 n.Power, authority, influence, ---wo furu, to show one's power,---wo toru, to hold the power, to have the authority, ---wo hatte mono wo iu, to talk assuming an air of authority.
すなわち、まずPower、つまり力という意味だったのである。
p.160

 rightの訳語となっていった「権利」はどうであったか。1891(明治24)年の、大槻文彦の『言海』によると、
 ケンリ 権利 身の分際にたもち居て、事に当たりて自ら処分することを得る権力。(義務と対す)
となっている。
pp.160-161

 西欧近代におけるrightの意味を、はっきり自覚し、指摘したのは、十七世紀半ば頃のホッブスである。rightとlawについて、rightは、ある事をするかしないかの自由にあるのに対して、lawはそのどちらかに決定し、束縛する、と『レバイヤサン』の中で言っている。
 この有名な指摘以来、rightは、古代以来の自然法にとって代わったのである。
p.161

 自然法学は、明治期に入ってしばらく受け継がれていたが、明治十年代頃から、ヨーロッパで支配的となってきた法実証主義の法学が主流になった。この考え方によれば、rightは、権力に対して超越的な意味は持たない。rightは、法によって与えられる意思、あるいは利益のことである。この考え方によっても、法によって与えられる力、と言えないこともないが、少なくとも第一には、力ではないのである。
p.162

 西周は、どうしてregtを、「権」というずれた意味の、誤解しやすいことばで翻訳したのだろうか。
 西は、この翻訳をするときregtを、当時すでに刊行され、読まれていたWilliam Martinの、漢訳「万国公法」を参考にした、と述べている。そこではすでに、「権」という翻訳語が使われていたのである。
p.163

 この「権」には、その伝来の意味、力というような意味と、その翻訳語としてのrightの意味とが混在している。
p.168

 「民権」ということばは、どうも誤解されていたのではないか、と思う。やはり二つの意味が混在し、その混在に気づかずに使われていたようであった。
 それは1872(明治五)年の、中村正直の『自由之理』から始まっていた。同書の最初の章の見出しに、「往古君民権を争う」とある。つまり、一つの「権」を、「君」と「民」とが争ってきたと理解していた、と考えられるのである。さらに本文中に、
 問ふ然らば人民自主の権と、政府管轄の権と、この二者の間に如何なる処置を為て、和調適当なるを得べきや。
とある。ここで「人民自主の権」と「政府管轄の権」とに対応する原文のことばはindividual independenceとsocial controlとである。その意味からして、rightとpowerとに相当する、と言えるが、とにかくこれを、中村が、一つの「権」における「人民自主」と「政府管轄」との対立、としてとらえていることに注目したい。
pp.168-169

 民権家たちは、政府の「権」に対して、自分たちもまた、本質的にはそれと等しい「権」を求めた。例えば、民権家たちの求めたのは、まず参政権など政府にあずかる「権」であった。基本的人「権」のような「権」はあまり問題にされなかった。
 そして、求められていたのがrightであるよりも多分に「力」であったために、それは比較的容易に理解され、支持された。とくに旧士族たちを惹きつけたであろう。
 このことは、おそらく弱点にも係わっている。運動がやがて「権」によって弾圧されたとき、運動家たちの「権」もまた見失われてしまった。あるいは、参政「権」が、曲がりなりにも明治憲法によって与えられたとき、そkにはまだ実現されていない「権」を見失った。rightとは、元来抽象的な、目に見えない観念であって、たとえ具体的な運動は潰されても、それとは別に人々の精神のうちに残っていくはずである。
p.171

 rightとか、福沢諭吉の「通義」が、道徳的な正しさと意味の繋がりを保っているのに対して、私たちの「権」には、どこか、力づくの、押しつけがましさ、というような語感がぬぐい切れない。たとえば、日常このことばを口にすると、とかく話がきゅうくつになりがちである。この語感は、日常のいろいろなところで、このことばの具体的表現の中に生きつづけている、と私は考える。
p.172

参照【「翻訳語成立事情」柳父 章 著、岩波新書】

Wednesday, July 09, 2008

美 - beauty

日本語の「美」と西欧語の「beauty」のギャップをあらためて考えるきっかけになった。

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 「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」(『当麻』1942年)とは、小林秀雄の有名な命題であるが、確かに、かつて私たちの国では、花の美しさというように、抽象概念によって美しいものをとらえようとする言い方も乏しく、したがってそのような考え方もほとんどなかった。花の美しさ、というようなことばや考え方を私たちに教えてくれたのは、やはり西欧舶来のことばであり、その翻訳語だったのである。
【p.67】

 たとえば、日本の伝統的美意識とか、世阿弥の美学、というような言い方がよく聞かれるが、このような問題のたて方は、自ずと翻訳的思考法をすべり込ませている、ということに注意したいと思う。なぜか。きわめて簡単明瞭なことなのであるが、近代以前、日本では、「美」ということばで、今日私たちが考えるような「美」の意味を語ったことばなかったからである。beautyやbeautéやschöheitなどは、西欧の詩人や画家などが、作品を具体的に制作する過程で、立ち止まって考えるときに口にすることばなのである。世阿弥や芭蕉は、当然こういう西欧語を知らず、従ってその意味を知らなかった。つまりその翻訳語である「美」を知らなかったのである。
【p.69】

 世阿弥の「花」や「幽玄」、利休の「わび」、芭蕉の「風雅」や「さび」、

 本居宣長の「もののあはれ」なども、一応同じような例として考えられるのである。これがおことばには、西欧美学の「美」と共通するところもかなりある。
【p.69】

 いずれも、舶来の「美」よりもはるかに具体的で、これでは観念を語っていると言うのさえむずかしいくらいである。
 もちろん、いかに具体的な体験を重視しているとは言っても、「わび」とか「風雅」とか「あはれ」というように、名詞の形で、ある究極の境地をとらえた、ということはやはり重要であろう。その限り、「美」と共通するところはある、と言わなければならない。これらのことばによって、いわば芸術の理想にも対応するような価値観が語られ、その道の人々の精神を支えたのである。
 しかし、私がすでにのべたような、違っている、という面もはやり重要である。そしてこの違いは、日本的「美」意識の特殊性とか、西欧の「美」と日本の「美」との違い、というように、「美」を前提としてとらえてはならない、と私は考える。少なくとも基本的な態度として、一つの普遍的な観念としての「美」を先に立て、その特殊な場合として日本的「美」がある。という思考方法は間違いである、と私は考えるのである。
【p.72】

 およそことばの意味は、「哲学者及審美学者」がきめるのではない。ことばが先にあって、その日常的意味をもとにして、「哲学者及審美学者」は、これをつごうによって中傷し、限定して使うのである。しかし、この限定された意味を、翻訳語として受けとめ、従って、完成された意味として受け取ることの多い日本では、この順序はとかく逆転して理解されがちである。
【p.78】
 
 レヴィ・ストロースはアマゾンの部族(ナムビクワラ族)をフィールワークしたとき、その酋長は自分だけが白人と文字によって通じていることを、部族の他の人々の知らしめることをしたという経験をし、それに基づいて考えた。

 レヴィ・ストロースは、およそ文字というものについて考え、それは権力的支配の道具である、と言う。鋭い文明批評である。たしかに、私たちの国でも、たとえば出土するかつての支配者の剣などに、きっと文字が刻まれているのを見出す。文字を刻んだ人たちじしん、必ずしもその意味を知ってはいなかったことは、鏡文字といって、左右が逆の書き方が時おり見つかることでも分る。その文字は、意味によるよりも、まずその「くねくねとした」不可解な形によって人々を惹きつけ、貴重であるとされ、独占されたのである。
 こういう歴史的体験を、いわば生物学で言う系統発生とすれば、外国から文字を受容したという私たち民族の経験は、あたかもその個体発生のように、今日でも、日本人の一人一人の翻訳語体験のうちに生きている、と私は考える。
 「美」ということばは、今日の教養ある人々にとっても、どこか分りにくい。だが重要なのは、それが日本語として語られる以前に存在していることば、翻訳語である、ということである。「美」について、考えれば分ると思っている人も、翻訳語固有のこういう効果を免れることはむずかしい。
 三島由紀夫の「美」のトリックは、こういう背景のもとに成り立っている。小説の中で「美」は、不意打ちにのように、説明抜きに現れてくる。しかもだいじなところに現れて、重要な働きをしている。他方、三島は、小説の読者はこちらも読むであろうという予測のもとに、「美」からその意味を抜きとるような発言を、評論文などでしておく。こうして翻訳語固有の「カセット効果★」は利用され、かつ人為的につくりだされている。三島は、あたかもナムビクワラ族のあの酋長のようにふるまい、お芝居を演じ、読者に対して、優越していると見せかけた立場から、このことばの効果を操作しているのである。
【pp.85-86】

参照【「翻訳語成立事情」柳父 章著,岩波新書】

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 ここで重要なことは、こういう「四角張った文字」の意味が、原語のindividualに等しくなるのではない、ということである。これらのことばはいくら眺めても、考えても、individualの意味は出てこない。だが、こういう新しい文字の、いわば向こう側に、individualの意味があるのだ、という約束がおかれることになる。が、それは翻訳者が勝手においた約束であるから、多数の読者には、やはり分らない。分らないのだが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よく分らないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。
 日本語における漢字の持つこういう効果を、私は「カセット効果」と名づけている。カセットcassetteとは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。「社会」も「個人」も、かつてこの「カセット効果」をもつことばであったし、程度の差こそあれ、今日の私たちにとってもそうだ、と私は考えている。

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日本では、早い段階から大衆化社会がつくられてきており、翻訳語のトリックはマスメディアによって一般化されてきているのだろうか。

Monday, June 30, 2008

大衆社会 - mass society

日本語で社会というとき,それは大衆社会の意味を含んでいる場合もあるように思う。しかし,society とmass societyの意味は大きく異なる。また,societyとindividualは相対する意味を持つことばであることについて。

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 だが,近代の成立以来釈迦の発展が辿ってきたすべての段階を或る国が実際に経過したかどうかは別にしても、「人口の大半が社会に組み入れられた」ときに大衆社会が登場したのは明らかである。そして、「良き社会」といういう意味での社会は、富だけでなく、余暇の時間すなわち「文化」のために捧げられるべき時間も自由に使えるような人口を含んでいるはずであるから、大衆社会は、人口の大半が肉体を消耗させる労働の重荷から解放され、「文化」のために余暇を十分に使えるようになったという新しい事態を端的に示している。したがって,大衆社会と大衆文化は相互に関連する現象であるように見える。しかし、両者の公分母は大衆ではなくてむしろ社会であり、その内に大衆もまた組み込まれているのである。歴史的に見ても概念的に見ても、社会は大衆社会に先行する。しかも社会という言葉は大衆社会という言葉と同様、すべての時期に適用できる名称ではない。社会はその始まりの時期を歴史的に特定し記述することができる。社会はたしかに大衆社会より旧くからあるが、社会の成立も近代以前には遡らない。適応能力があるにもかかわらずひとりぼっちであること(lonliness) -----ひとりぼっちは孤立(isolation)や孤独(solitude)とは異なる -----、激しやすい正確や節操の欠如、判断力さらには識別力すらもたずに消費する能力、わけてもその自己中心的態度やルソー以来自己疎外と取り違えられてきた宿命的な世界疎外、これら、この間の群集心理学が大衆人に見出した特徴はすべて、数のうえで大衆の問題など存在しなかった良き社会にまず現れたのである。
 われわれが18、19世紀に目にする良き社会は、おそらく絶対主義時代のヨーロッパの宮廷、とりわけルイ十四世の宮廷社会に起源をもつ。ルイ十四世は、フランスの貴族を挺身としてヴェルサイユに集め、そのいつ果てるともない宴が生み出さずにはいない陰謀、策動、とめどない噂話によってかれらを楽しみに耽けさせるという単純な手法をとったまでのことである。したがって、まさに近代の芸術形式である小説の真の先駆けとなったのは、冒険家や騎士たちの英雄譚(picaresque romance)よりもむしろ[ルイ十四世下の宮廷生活を描いた]サン=シモンの『回想録』(Mèmoires)であった。他方で小説そのものは、いまなおそうであるように、社会と「個人」の抗争を中心のテーマとする心理学や社会科学の台頭を明らかに先取りするものであった。社会と抗争する個人こそ、近代の大衆人の真の先駆者にほかならない。個人(individual)は、18世紀のルソー、19世紀のジョン・スチュアート・ミルのように社会(society)に公然と反抗せざるえなかった人びとによって概念的に規定され、また実際その姿を見出されてきた。以来、社会とその社会に住まう個人の抗争の物語は、仮構(fiction)の世界のみならず現実においても幾度となく繰り返されてきた。かつては新しい(modern)存在であった個人も、いまではさほど新しい(modern)とはいえなくなっている。個人は、社会の核心部分を構成しながら、社会に対して自らを確立しようとしてはつねに打ち負かされてきたのである。
【参照:pp.267-269, 「文化の危機」,『過去と未来の間』ハンナ・アーレント著,みすず書房】

Sunday, June 29, 2008

個人- individual

「個人」という語が普及したのは、自我・自己を主張する思想の移入と無関係ではなかった。
【p.180】

明治20年代にはいると、イプセンやニーチェの個人主義 individualism の思想が輸入され、「個人」の使用率が上がってくる。石川啄木は、その第一声は高山樗牛だという。

蓋し、我々明治の青年が、全く租父兄の手によって造り出された明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されて来た間に、別に青年自体の権利を
認し、自発的に自己を主張しはじめたのは、誰も知る如く、日清戦争の結果によって国民全体が其国民的自覚の勃興を示してから間もなくのことであった。既に自然主義運動の先蹤として一部の間でみとめれている如く、樗牛の個人主義は即ち其第一声であった。
(「時代閉塞の現状」石川啄木著,明治四十三年)
【p.180】

参照【「明治生れの日本語」飛田良文著,淡文社】

Friday, June 27, 2008

個人 - individual

社会-societyは,個人-individualの集合体が用いている生活の組織、やり方。という意味があるので、個人-individualについて。

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幕末のころ日本でも出回っていたいた各種の『英華字典』(1822年)では、indibidualの項は、「単、独、単一個」だが、次の例文がある。
There is but a single individual there.
そしてこれが、「独有一個人那所に在り」と訳されている。
【p.25】

「一個人」や「個人」は、individualの意味を伝える訳語ではなかった。「個人」の「個」とは、一個、二個と数えるときの「個」であり、その「個」に「人」が組み合わされた「個人」という複数後は、日本語における伝統的な漢字の語感とは、ずい分ずれていたに違いないのである。
【p.27】

仲間会所即チ政府ニテ、人民各箇ノ上ニ施コシ行フ権勢ノ限界ヲ論ズ
とある。
ミルの原文の方を見てみると、
OF THE LIMITS TO THE AUTHORITY OF SOCIETY OVER THE INDIVIDUAL (J.S.Mill:On Liberty, 1959)
とあり、これは第四章の見出しと、下記始めの部分である。原文の見出し中のindividualhaは、the authority of societyと対立することばである。西欧人のものの考え方の一つの基本であるindividualとsocietyとの対立の図式が、ここにはっきり見てとれる。
【p.29】

individualが、civilizationの重要な要素とされているギゾーの考えを、civilizationのもとの意味にかえって、「都府に住する人は」というようにとらえ、その内容の一つを「身持」として、日本語の文脈でとらえた、と思われる。civilizationとは、もともとcityの形容詞civilの名詞形だからである。
【p.31】

individualということばは、ヨーロッパの歴史の中で、たとえばmanとか、human beingなどとは違った思想的な背景を持っている。それは、神に対して一人でいる人間、また、社会に対して、究極的な単位として一人でいる人間、というような思想とともに口にされてきた。
【pp.32-33】

中江兆民の仏学塾で、1891年に出した『仏和辞林』の改訂版によると、individuの項は同じだが、(「一個物、一個人」)、individualismeの項は、「独立派(理)、独立論、個人主義」となって、「個人主義」ということばがつけ加えられている。この頃から、「個人」ということばが広く使われるようになった。と考えられる。
【p.42】

参照『翻訳語成立事情』柳父 章著、岩波新書。