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Saturday, December 05, 2009

プロボノフォーラムに行って来ました

12月5日ラフォーレミュージアム原宿、〈PRO BONO FORUM〉
 遅れて16時ごろに会場へ到着。会場はほぼ満席。

プロボノ・フォーラムのウェブサイト
http://svgt.jp/probono/

プロボノとは何か?ーーーwikipedia〈プロボノ〉

無報酬で行う社会貢献活動。
言い換えれば、労働ではなく、PUBLICに向けての活動や仕事によって社会参加すること。


上の数字の写真は、このイベント最後に行われたワークショップの様子。会場に集まった人々が一年間でプロボノできる時間を集計した合計時間が上の数字。29808時間/約200人。
この後、このワークショップのファシリテーターは、合計時間に時給を乗じて金額をはじき出しました。

このワークショップで、新しく知り合えた人たちと交流できたのが一番楽しかった(短時間でも)。

政府行政による社会保障とは別に、社会の包摂性高めるために有効な活動としてこれから日本でも〈プロボノ〉が流行していくのだろう、と思いました。

Monday, September 14, 2009

越後妻有アートトリエンナーレ2009、写真

この作品は川西の岩瀬集落に設置されていた西尾美也作品。タイトルは〈家族の制服〉。巨大な写真スクリーンが田圃の畦に設置されており、スクリーンの左下に小さな写真が設置されている。その小さな写真はこの集落の昔の家族写真で、大きなスクリーンの写真はその昔の家族写真を現代で再現されている。つまり、撮影場所、人物の配置、衣装が再現されている。


観客は集落の中に至る農道を歩いて行くと、巨大な写真を雑木林と農家に囲まれた田圃のある風景のなかに発見する。ここの環境の中で制作され展示されたことで、作品は環境の一部にとけ込んでいるように見える。

Thursday, September 10, 2009

今日から、大地の芸術祭へ出発。

9月10日から、新潟県の十日町市と津南町で開催中の「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ2009」と、新潟市で開催中の「水と土の芸術祭2009」へ行ってきます。
東京からの我々のアクセスは、ETCを付けた車で深夜割引(高速道路通行料金が半額)を利用し、関越自動車道で向かう。

高速道路無料化が早く実施されていれば良かっが、今回は残念ながら間に合いません。
地方にとって高速道路が無料化されることは地方の活性化のために有効だろう。なぜなら、高速道路の料金選定は一般的に1kmあたり25円なので、高速道路を100km走れば2500円となるが、東京よりも労働時給単価が低い地方で働く人々にとって高速を気軽に使うわけにいかず、高速と平行する道路を走る自動車の通行量が多くなるという矛盾した現象があるが、それが無料化されれば一般道の渋滞は緩和され地方を活性化する基盤になるだろうから。
これから向う新潟の二つの芸術祭も、高速道路が無料化されていれば、今後さらに来客数の増加を期待することができるだろう。 全国の同様の地方地域にとっても、観光だけでなく、流通や通勤などの基盤となるだろう。

写真は、9月8日に大地の芸術祭のパスポートを購入するために行った東京・代官山のトリエンナーレセンター。
大地の芸術祭のパスポートの価格は、大人3,500円。
水と土の芸術祭のパスポートは現地で購入時にこの大地の芸術祭パスを見せれば、2500円が2000円になるそうだ。

Saturday, July 12, 2008

存在 - being (2)

日本語の「存在」はあえて意味を調べる必要あるとは思えない言葉だと感じるが、それはカセット効果が働いている翻訳語でしかない。ただ「存在」として翻訳語を眺めているだけでは、オリジナルの西欧語の文脈は知りえない。

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 神学theologyや哲学philosophy、形而上学metaphysicsが終わりに達したと考えることが実際何を意味しているのかを反省してみるのが懸命だろう。それはたしかに神が死んだということではない。それは神の存在beingについて知り得ないのと同じく我々の知り得ないようなことである。そうではなくて、数千年来、神について考えられてきた考え方がもはや説得的ではないということなのである。もし何かが死んだのなら、それが可能なのは神についての伝統的な考えだけである。同じよなことが哲学philosophyと形而上学metaphysicsの終演ということについても当てはまる。人間のこの世への登場と時を同じくする古来からの問題が「無意味」になったのではなく、その枠組みや答えの仕方が妥当性を失ったのである。

 終わってしまったは、感覚的なものと超感覚的なものとの基本的な区別である。この区別は、少なくともパルメニデス以来、感覚に与えられないものは — 神godであれ、存在beingであれ、第一原理かつ原因(archai)であれ、イデアideaであれ —、現象phenomenonするよりも実在的で、真実であり意味が深いものであり、感覚知覚を声出るだけでなく、感覚世界の上の方にあるのだという考えと一緒になっているのだが、これが終わったのである。「死んで」いるのはこのような「永遠の真理」の限定ということだけではなく、区別そのものなのである。
【p.13】

 デモクリトスによって、超感覚的なものの器官である精神と感覚との間の小対話で、これ以上ないほど単純明快に予言的に行われている。精神が言う。
「感覚知覚は幻影だ。それは身体の条件によって変化するからだ。甘さ、苦さ、色などというものは、人間の取り決めによって(nomō)存在するのであって、現象の背後にある真の自然によって(physei)いるのではないのだ」と。これに対して、感覚は答える。
「哀れな精神よ!お前は、証拠[pisteis,信用できるものすべて]を私たちからとっておきながら我々を打ち倒そうというのか。我々を打倒すればお前が滅亡することになるぞ」。
言いかえれば、一旦、これまでいつも周到に保たれてきた二つの世界のバランスが失われてしまうと、「真の世界」が「仮象の世界」を絶滅しようと、その反対であろうと、我々がの思考がつねづね依拠してきた枠組み全体が崩壊していく。そのように見ると、何ももう大した意味がないかのように見えるだろう。
【p.14】

参照【「精神の生活」ハンナ・アレント著,岩波書店】