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Tuesday, October 13, 2009

河口龍夫展にいってきました。

10月13日、東京の国立近代美術館へ、河口龍夫展を見に行って来ました。初期の頃から最近の作品までが構成された回顧展のようでした。



 展示の最初は、暗闇を「封印」した「Dark Box」シリーズから始まった。そして、暗闇の中でドローイングする体験ルームが設置されており、観客自ら暗闇ドローイングを描いて持ち帰ることできるようになっていた。

この展覧会図録に河口は彼が幼いころ戦時中で、空襲を避けて防空壕へ待避したときの暗闇の記憶や、またそのこと一時的に視力を失ったことの記憶について記るしている。例えば、

光を失った幼い頃、視覚が途絶えた闇の中では、五感のうち視覚以外の感覚が研ぎすまされていったように思われた。視覚を補う程度から視覚を超える程度までに視覚以外の感覚が一時的ではあったが鋭くなっていたような気がした。(図録より、P22)

封印された暗闇は実は非常に豊かではっきりとした彼の原体験なのかもしれない、と思い興味を持ちました。

また近年に地方(新潟、福井など)で発表した作品が一同に会して展示されていました。
多数の多様な作品があり、見応えがありました。

会期は12月13日まで。

Sunday, September 27, 2009

視覚障害の方々と一緒に美術鑑賞ツアーに参加。

9月25日午後6時30分に乃木坂駅に集合。友人で視覚障害のあるGさんとその奥さんと一緒に、視覚障害者と一緒にアートを鑑賞する〈MARの鑑賞ツアー〉に参加しました。
会場は東京にある国立新美術館、展覧会は〈光 松本陽子/野口里佳〉展。作品は絵画と写真で、当然触ることは禁じられており、同行する健常者が語る言葉だけで作品イメージを互いに共有していく。果たして上手くいくのかどうか疑問もあり、とにかくやってみることに。。。
最初、主催者が2人から3人のグループに分けられた。私は友人夫妻とはなれ、ブラインドのKさんとガイドのTさんのグループに入れていただいた。初対面のお二人とご挨拶して、いよいよ会場へ向った。するとそこからすでに鑑賞ツアーは始まっており、ホワイエの大空間の広さや色や光の様子を言葉で説明。そしていよいよ展覧会場へ。
この展覧会は、画家と写真家の二人のアーティストを〈光〉という言葉で関連づけているが、それぞれ画家の松本洋子と写真家の野口里佳の個展が並列されている。なので、会場入口に解説パネルがあり、その奥に二つの個展の入口が開いていた。そこでまず右側の野口里佳展へ向った。
最初に富士登山の写真。例えばある作品では、大きな石がころがるガレ場を一人がリュックサックを背負って登っている。それは白いきりの中でぼんやりと霞んでいる。画面の大きさは高さ1m以上ある長方形で、登る人物は画面の中央やや下に小さく写っており、画面の上半分は白い霧で真っ白、といった説明。
そして、松本陽子作品の場合、これは全くの抽象的絵画。キャンバスに油絵で、サーモンピンクの淡いグラデーションが渦巻く積乱雲を描いたよう。また、大きな滝壺の近くで水しぶきを浴びているような感じ、だとかいろいろと語った。
Kさんの場合は私たちの言葉と、視力を失う前に見た視覚的記憶を加えて作品イメージを構成するとのことでした。また、Kさんに感想を聞くと、やはりたくさんのいろんな種類の言葉で、つまり豊富なボキャブラリーで、語ってもらうとイメージし易いとのこと。もし先天的に盲目の方の場合、視覚的記憶がないのだがやはり頭の中でイメージが構成されるらしいと、Tさんに教えていただいた。

この体験は、言語ゲームであることが強調される。私とガイドのTさんが語る言葉から、ブラインドのKさんは作品のイメージを頭の中で想像する。ここではまず言葉があってイメージの共有が始まる。そして、互いに言葉によってイメージを膨らませる。また、見えている私たちの視覚的経験も豊かに高められていくようだと思った。
ブラインドの人の立場は、ラジオDJの言葉を聴いているリスナーである私が、時に強い臨場感をもってイメージを膨らませているようなことだろうか。しかし、彼がどんなイメージを思考しているか見ることはできない。だが、他者の思考を見ることができないのは障害の有無に関係がなく平等。共有するのはイメージを語る言葉のみであり、それはまさに言語ゲーム。



展覧会場の外で解散前に談笑する参加者たち。初対面でも一度のこと鑑賞体験を共有すると一気に親しくなることができるようだ。
参加者の皆さん、主催のエイブルアートジャパンの皆さん、どうもありがとう。

Friday, July 11, 2008

永劫回帰 - eternal recurrence

永劫回帰はドイツ語のdie ewige Wiederkunftの翻訳語。eternal recurrenceはその英訳。

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「永劫回帰の思想は史的事件をすら大量生産品にする。しかしまたこの概念は別の観点から見ると—その裏面にと言ってよいであろうが—経済的状況の痕跡をとどめている。この概念はその唐突な現実性を経済的状況に負うのである。この現実性は、生活環境の確実性が危機の急速な継起によってはなはだしく低減した瞬間にあらわれた。永劫回帰の思想は、永遠が裁量するよりも短い期間に同じ環境が回帰することはもやはけっして期待できないことから、その栄光を獲得したのである。日常的な諸状況の回帰はきわめて緩慢にではあったがいささか稀になっていた。そのために、宇宙的な星座の回帰で満足しなければならないという漠然とした予感が蠢動していたのであろう。要するに、習慣はその機能のいくつかを放棄しはじめていた。「わたしは短い習慣をこのむ」とニーチェは言っている、そして、ボードレールがすでにその生涯にわたって確固とした習慣を発展させることができなかったのである。」(「セントラル・パーク」)
「永劫回帰は幸福の二律背反的な二原理、すなわち、永遠の原理と〈いまいちど〉の原理とをむすびあわせようとする試みである。—永劫回帰の観念は時代の悲惨のなかから幸福の思弁的観念(もしくは幻覚形象)を喚起する。ニーチェのヒロイズムは、俗物の悲惨のなかから近代の幻覚形象を喚起するボードレールのヒロイズムの対蹠物である。」
【pp.179-180】

 ベンヤミンがここで強く批判の対象としてたたかっているのは、”永劫回帰”の概念と一枚の楯の裏表の関係にある”進歩”ないし”連続性”の概念である。彼は、いわゆる文化史の不毛性を次のように批判する。
「要するに、見せかけだけは洞察の推進力を記述しても、弁証法の推進力は見せかけですらも記述しない。なぜなら文化史には、破壊的要素が欠けており、この破壊的要素が弁証法的思考と弁証法論者の経験を確かな根拠のあるものとして保証するのである。たしかに文化史は人類の背中に堆積する財宝の重荷を増加させる。しかし文化史はその財宝を手に入れるために、それを振り落す力を人類に与えない。同様なことが、文化史を導きの星にした、世紀の変わり目の社会主義的教育活動について言える。」
【p.181】

「破局の概念の下に実現するような歴史過程は、じつは思考する人間を、子供が手にもって遊ぶ万華鏡以上にあてにするわけにはいかない。万華鏡を廻せば、秩序づけられていた像は崩れてふたたび新しい秩序をかたちづくる。その像にもそれなりの理由がある。支配層の手中にある諸概念はつねにひとつの〈秩序〉の像を映し出してみせた鏡であった。万華鏡は打ち砕かねばならない。」(「セントラル・パーク」)
【p.182】

つまり、万華鏡は打ち砕かねばならぬということは、同時に、かつてそういう万華鏡を手にして遊んだ子供であった自分をもまた打ち砕かねばならぬという強烈な自己否定の意志と情熱に裏打ちされてでてくる言葉にほかならないのだ。ベンヤミンの文章には、つねに謎めいた、熱気あふれる暗い情熱が感じられるが、ほかならぬその暗いパトスが、いまなお歴史の大きな変動期に身をおいて、わが身を二つに引き裂かれるような内的・外的体験をくり返さなければならない私の心に衝動を与えるのである。
【p.183】

「複製技術に関わりを持つことが、他の研究方向ではほとんどできないような、受容の決定的な意味を解明する。そのやり方によれば芸術作品に生じる物化materializationの過程をある程度の限度内で補正することが可能になる。大衆芸術の考察は天才概念の修正に導く。この考察は、芸術作品の生成にあずかる霊感inspiretionに注意を奪われて、その霊感をして実りあらしめることを可能にする唯一のものである事実を見逃さぬようにとうながす。図像学的解釈iconologyは結合受容と大衆芸術の研究にとって不可欠なものとして現れるだけではない。それはなににもまして、あらゆる形式主義がただぢにそこへ誤り導くことになる侵害を妨げる。」
【p.184】

 複製技術の発展にともなって、芸術では展示価値が高まり、作品は大衆の眼のすぐ間近まで近づけられた。こうして、作品をじっと見つめ、同時に作品から見つめ返されるという、熱っぽい視線の交換から生じてくるアウラは消滅した。しかし、はたしてベンヤミンはアウラの消滅を双手をあげて歓迎し、謳歌しているのであろうか。それとも、アウラの消滅の必然性をはっきり認識しながらも、同時に消え行くアウラに憂愁にみちた別離の眼差しを送っているのだろうか。
 複製芸術にたいするこうしたアンビヴァレンツは、ひとつには、複製芸術作品をすべて商品として大衆に提供する現代社会の機構が、芸術作品の物化を極度に押し進めているっことから生じてくるのであり、二つには、かつてのアウラ的芸術鑑賞においては、作品は観者から隔離されていることによって、蔑視され、凝視によって逆に作品は観者の魂に近づけられたのに反し、複製技術は作品と観者との距離を抹殺することによって、観者を「散漫な試験管」にし、逆に作品を観者の魂から遠ざける作用をする、という逆説が、今日依然として未解説の問題として残されていることから生じてくるのである。
 ”複製技術の領域において迫り来る巨大な諸発明に関するひとつの夢としての永劫回帰の教義”という謎めいた一句が、「セントラル・パーク」のなかに見出される。永劫回帰の夢をベンヤミンがどういうものとして見ていたかは、すでに先に引用したアフォリズムによって明らかだろう。芸術へのテクノロジーの新しい適用に有頂天になっている現代のモダニストたちは、「時代の悲惨のなかから幸福の思弁的観念(もしくは幻覚形象)を喚起する」ことにやっきになっている永劫回帰論者、言い換えれば、革新者の体裁をした現状維持論者にほかならないのではなかろうか。そういうモダニストたちにたいして、共産主義は、芸術の政治化をもってこたえるであろう、という言葉は、(「政治」とならべて「技術」という言葉を補い、「ファシズム」とならべて「モダニズム」という言葉を補うならば)今日なお決然たる挑戦宣言であることをやめていない。
【pp.185-187】

参照【「複製技術時代の芸術」ヴァルター・ベンヤミン著,佐々木基一編集解説より「解説」】

Wednesday, July 09, 2008

美 - beauty

日本語の「美」と西欧語の「beauty」のギャップをあらためて考えるきっかけになった。

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 「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」(『当麻』1942年)とは、小林秀雄の有名な命題であるが、確かに、かつて私たちの国では、花の美しさというように、抽象概念によって美しいものをとらえようとする言い方も乏しく、したがってそのような考え方もほとんどなかった。花の美しさ、というようなことばや考え方を私たちに教えてくれたのは、やはり西欧舶来のことばであり、その翻訳語だったのである。
【p.67】

 たとえば、日本の伝統的美意識とか、世阿弥の美学、というような言い方がよく聞かれるが、このような問題のたて方は、自ずと翻訳的思考法をすべり込ませている、ということに注意したいと思う。なぜか。きわめて簡単明瞭なことなのであるが、近代以前、日本では、「美」ということばで、今日私たちが考えるような「美」の意味を語ったことばなかったからである。beautyやbeautéやschöheitなどは、西欧の詩人や画家などが、作品を具体的に制作する過程で、立ち止まって考えるときに口にすることばなのである。世阿弥や芭蕉は、当然こういう西欧語を知らず、従ってその意味を知らなかった。つまりその翻訳語である「美」を知らなかったのである。
【p.69】

 世阿弥の「花」や「幽玄」、利休の「わび」、芭蕉の「風雅」や「さび」、

 本居宣長の「もののあはれ」なども、一応同じような例として考えられるのである。これがおことばには、西欧美学の「美」と共通するところもかなりある。
【p.69】

 いずれも、舶来の「美」よりもはるかに具体的で、これでは観念を語っていると言うのさえむずかしいくらいである。
 もちろん、いかに具体的な体験を重視しているとは言っても、「わび」とか「風雅」とか「あはれ」というように、名詞の形で、ある究極の境地をとらえた、ということはやはり重要であろう。その限り、「美」と共通するところはある、と言わなければならない。これらのことばによって、いわば芸術の理想にも対応するような価値観が語られ、その道の人々の精神を支えたのである。
 しかし、私がすでにのべたような、違っている、という面もはやり重要である。そしてこの違いは、日本的「美」意識の特殊性とか、西欧の「美」と日本の「美」との違い、というように、「美」を前提としてとらえてはならない、と私は考える。少なくとも基本的な態度として、一つの普遍的な観念としての「美」を先に立て、その特殊な場合として日本的「美」がある。という思考方法は間違いである、と私は考えるのである。
【p.72】

 およそことばの意味は、「哲学者及審美学者」がきめるのではない。ことばが先にあって、その日常的意味をもとにして、「哲学者及審美学者」は、これをつごうによって中傷し、限定して使うのである。しかし、この限定された意味を、翻訳語として受けとめ、従って、完成された意味として受け取ることの多い日本では、この順序はとかく逆転して理解されがちである。
【p.78】
 
 レヴィ・ストロースはアマゾンの部族(ナムビクワラ族)をフィールワークしたとき、その酋長は自分だけが白人と文字によって通じていることを、部族の他の人々の知らしめることをしたという経験をし、それに基づいて考えた。

 レヴィ・ストロースは、およそ文字というものについて考え、それは権力的支配の道具である、と言う。鋭い文明批評である。たしかに、私たちの国でも、たとえば出土するかつての支配者の剣などに、きっと文字が刻まれているのを見出す。文字を刻んだ人たちじしん、必ずしもその意味を知ってはいなかったことは、鏡文字といって、左右が逆の書き方が時おり見つかることでも分る。その文字は、意味によるよりも、まずその「くねくねとした」不可解な形によって人々を惹きつけ、貴重であるとされ、独占されたのである。
 こういう歴史的体験を、いわば生物学で言う系統発生とすれば、外国から文字を受容したという私たち民族の経験は、あたかもその個体発生のように、今日でも、日本人の一人一人の翻訳語体験のうちに生きている、と私は考える。
 「美」ということばは、今日の教養ある人々にとっても、どこか分りにくい。だが重要なのは、それが日本語として語られる以前に存在していることば、翻訳語である、ということである。「美」について、考えれば分ると思っている人も、翻訳語固有のこういう効果を免れることはむずかしい。
 三島由紀夫の「美」のトリックは、こういう背景のもとに成り立っている。小説の中で「美」は、不意打ちにのように、説明抜きに現れてくる。しかもだいじなところに現れて、重要な働きをしている。他方、三島は、小説の読者はこちらも読むであろうという予測のもとに、「美」からその意味を抜きとるような発言を、評論文などでしておく。こうして翻訳語固有の「カセット効果★」は利用され、かつ人為的につくりだされている。三島は、あたかもナムビクワラ族のあの酋長のようにふるまい、お芝居を演じ、読者に対して、優越していると見せかけた立場から、このことばの効果を操作しているのである。
【pp.85-86】

参照【「翻訳語成立事情」柳父 章著,岩波新書】

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 ここで重要なことは、こういう「四角張った文字」の意味が、原語のindividualに等しくなるのではない、ということである。これらのことばはいくら眺めても、考えても、individualの意味は出てこない。だが、こういう新しい文字の、いわば向こう側に、individualの意味があるのだ、という約束がおかれることになる。が、それは翻訳者が勝手においた約束であるから、多数の読者には、やはり分らない。分らないのだが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よく分らないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。
 日本語における漢字の持つこういう効果を、私は「カセット効果」と名づけている。カセットcassetteとは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。「社会」も「個人」も、かつてこの「カセット効果」をもつことばであったし、程度の差こそあれ、今日の私たちにとってもそうだ、と私は考えている。

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日本では、早い段階から大衆化社会がつくられてきており、翻訳語のトリックはマスメディアによって一般化されてきているのだろうか。

Saturday, July 05, 2008

美的共通感覚 - aethetic common sense

芸術や都市の景観を他人同士がたがいに共感しあうことについて。
しかし、もともとの日本語には、aethetic, common sense, imagination, understanding, reasoning, judgementなどに対応することばがなかったので、新しい翻訳語があてられている。

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「これは美しい」と言うとき、われわれは単に「これは好ましい」と言っているのではない。われわれはある種の客観性objectivity、ある種の必然性inevitability、ある種の普遍性universalityを当然のものとして要求しているのである。だが、美的対象の純粋な表象representionは個別的である。つまり、美的判断aethetic judgementの客観性objectivityは概念conceptを欠いている。あるいは(同じことだが)、その必然性と普遍性は主観的である。一定の概念(幾何学図形、生物学上の種、合理的な観念)が介入するたびごとに、美は自由であることを止め、同時に美的判断も純粋であることを止める。感情能力は、その高次の形態においては、思弁的関心にも、実践的関心にも依存することはできない。それゆえに、美的判断において普遍的で必然的なものとして提示されるものは、ただの快pleasureに過ぎないのである。われわれは、自分たちが感じる快が、権利上、伝達可能で、万人に妥当なものであると仮定し、だれもがそれを感じるはずだと推測するreason about。
【p.100】

構想力imaginationは、ここでは、「概念conceptなしで図式化しているrepresent graphically」、と。しかし、図式化作用とは、常に、もやは自由でない構想力、悟性概念に即して働くように規定された構想力の行為である。ということは、実のところ、構想力はここでは図式化とは別のことを行っているのである。構想力は対象の形式を反省することで自らの最も深い自由を表し、「形象の観察において、いわば、戯れている」のであり、「可能的直観の恣意的arbitraryな諸形態の原因としての」産出的で自発的な構想力になるのである。これがつまり、自由なものとしての構想力imaginationと、無規定なものとしての悟性understandingとの一致conformである。これが、諸能力間の、それ自身で自由で無規定な一致である。この一致について、それは本来的な意味で美的な共通感覚common sense(趣味taste)を明示するものであると言わねばならない。実際、われわれが、伝達可能で、万人に妥当なものであると規定している快pleasureは、この一致の結果以外の何ものでもない。構想力と悟性の自由な戯れは、一定の概念のもとで起こることではないので、知的に認識されることはなく、ただ感じられるだけである。したがって、「感情の伝達可能性」(概念の媒介を経ないそれ)というわれわれの仮定は、諸能力の主観的一致という理念に基づいているのだが、但しそれも、この一致そのものがひとつの共通感覚を形づくっている限りにおいてのことである。

美的共通感覚aethetic common senseは、先行する二つの共通感覚を補うものだと考える人もいるかもしれない。論理的logicalな共通感覚と、道徳的moralな共通感覚の場合では、あるときは悟性が、あるときは理性が、立法行為legislationを行い、他の能力の機能を規定している。ここではその役を引き受けるのが構想力imaginationなのだ、と。だが、事態はそのようではありえない。感情能力は対象にたいして立法行為を行うのではない。したがって、感情emotional能力の中には、立法的な能力(この語の第二の意味におけるそれ)は存在しない。美的共通感覚が、諸能力の客観的一致を表彰することはない。(言い換えれば、支配的能力への対象の従属、かかる対象に関して他の能力が果たすべき役割を同時に規定するような能力への対象の従属を表象することはない)。それは、構想力imaginationと悟性understandingがそれぞれ自分のために自発的に働く際の純粋な主観的subjective調和を表象する。したがって、美的共通感覚は他の二つの共通感覚を補うのではない。むしろそれらを基礎付ける、あるいは、可能にするのである。仮にすべての能力の間で最初からこの自由な主観的調和が可能でなかったなら、どれかひとつの能力が立法的で規定的な能力を担うこともなかっただろう。
【pp.101-103】

参照【「カントの批判哲学」ジル・ドゥルーズ著,國分功一郎訳】