Friday, August 15, 2008

権利 - right

譬えば訳書中に往々自由通義の時を用ひたること多しといえども、実は是等の訳字を以て原意を尽くすに足らず。
『西洋事情 二編』福沢諭吉著

 rightの名詞には、大きく分けると、道徳的な正しさという意味と、右という意味と、今日言う「権利」の意味とがある。また、オランダ語のregtやフランス語のdroitには、英語のrightにはない法律というような意味もある。
pp.155-156

 rightの法律上の意味、今日言う「権利」は、道徳上の正しさ、という意味を、少なくとも「正しさ」という意味では受け継いでいる。正当性とか、合法性などともいう。ところが、「権」ということばは、正しさとはむしろ正反対に対立する意味、力というような意味であった。
p.159

 『和英語林集成』の初版(1867年)では、「権」はこうなっている。
Ken ケン 権 n.Power, authority, influence, ---wo furu, to show one's power,---wo toru, to hold the power, to have the authority, ---wo hatte mono wo iu, to talk assuming an air of authority.
すなわち、まずPower、つまり力という意味だったのである。
p.160

 rightの訳語となっていった「権利」はどうであったか。1891(明治24)年の、大槻文彦の『言海』によると、
 ケンリ 権利 身の分際にたもち居て、事に当たりて自ら処分することを得る権力。(義務と対す)
となっている。
pp.160-161

 西欧近代におけるrightの意味を、はっきり自覚し、指摘したのは、十七世紀半ば頃のホッブスである。rightとlawについて、rightは、ある事をするかしないかの自由にあるのに対して、lawはそのどちらかに決定し、束縛する、と『レバイヤサン』の中で言っている。
 この有名な指摘以来、rightは、古代以来の自然法にとって代わったのである。
p.161

 自然法学は、明治期に入ってしばらく受け継がれていたが、明治十年代頃から、ヨーロッパで支配的となってきた法実証主義の法学が主流になった。この考え方によれば、rightは、権力に対して超越的な意味は持たない。rightは、法によって与えられる意思、あるいは利益のことである。この考え方によっても、法によって与えられる力、と言えないこともないが、少なくとも第一には、力ではないのである。
p.162

 西周は、どうしてregtを、「権」というずれた意味の、誤解しやすいことばで翻訳したのだろうか。
 西は、この翻訳をするときregtを、当時すでに刊行され、読まれていたWilliam Martinの、漢訳「万国公法」を参考にした、と述べている。そこではすでに、「権」という翻訳語が使われていたのである。
p.163

 この「権」には、その伝来の意味、力というような意味と、その翻訳語としてのrightの意味とが混在している。
p.168

 「民権」ということばは、どうも誤解されていたのではないか、と思う。やはり二つの意味が混在し、その混在に気づかずに使われていたようであった。
 それは1872(明治五)年の、中村正直の『自由之理』から始まっていた。同書の最初の章の見出しに、「往古君民権を争う」とある。つまり、一つの「権」を、「君」と「民」とが争ってきたと理解していた、と考えられるのである。さらに本文中に、
 問ふ然らば人民自主の権と、政府管轄の権と、この二者の間に如何なる処置を為て、和調適当なるを得べきや。
とある。ここで「人民自主の権」と「政府管轄の権」とに対応する原文のことばはindividual independenceとsocial controlとである。その意味からして、rightとpowerとに相当する、と言えるが、とにかくこれを、中村が、一つの「権」における「人民自主」と「政府管轄」との対立、としてとらえていることに注目したい。
pp.168-169

 民権家たちは、政府の「権」に対して、自分たちもまた、本質的にはそれと等しい「権」を求めた。例えば、民権家たちの求めたのは、まず参政権など政府にあずかる「権」であった。基本的人「権」のような「権」はあまり問題にされなかった。
 そして、求められていたのがrightであるよりも多分に「力」であったために、それは比較的容易に理解され、支持された。とくに旧士族たちを惹きつけたであろう。
 このことは、おそらく弱点にも係わっている。運動がやがて「権」によって弾圧されたとき、運動家たちの「権」もまた見失われてしまった。あるいは、参政「権」が、曲がりなりにも明治憲法によって与えられたとき、そkにはまだ実現されていない「権」を見失った。rightとは、元来抽象的な、目に見えない観念であって、たとえ具体的な運動は潰されても、それとは別に人々の精神のうちに残っていくはずである。
p.171

 rightとか、福沢諭吉の「通義」が、道徳的な正しさと意味の繋がりを保っているのに対して、私たちの「権」には、どこか、力づくの、押しつけがましさ、というような語感がぬぐい切れない。たとえば、日常このことばを口にすると、とかく話がきゅうくつになりがちである。この語感は、日常のいろいろなところで、このことばの具体的表現の中に生きつづけている、と私は考える。
p.172

参照【「翻訳語成立事情」柳父 章 著、岩波新書】

Tuesday, August 12, 2008

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 活動action以外では、言論は、伝達の手段としてか、あるいは無言でもできるある事柄の単なる付属物としてか、いずれにしても副次的な役割しか果たさないからである。たしかに言論は、伝達と情報の手段として極めて有益である。しかし、伝達と情報の手段としてならば、言論を記号言語に置き代えることもできる。しかもその場合、記号言語の方が、数字やその他の科学教育やある形式の共同作業などの場合に見られるように、一定の意味を伝えるのにはるかに有益であり、便利であろう。またたとえば、活動する人間の能力、とくに協調して活動する能力が自己防衛や利益の追求のような目的に有益であることもたしかである。しかし、ここで問題になっているのは、ただ単に活動を目的のための手段として用いることにすぎない。だから、それと同じ目的を達成するには、むしろ無言の暴力の方がはるかに簡単であることは明らかである。したがって、言論を純粋に有用性の観点からみれば、それは記号言語の不便な代替物であるように見えるし、同じように活動は、暴力の必ずしも効率的でない代替物のように見えるだろう。
参照【p.291, 人間の条件,ハンナ・アレント著,筑摩文庫】