Wednesday, July 23, 2008

近代的生活 - modern life

 近代になって、世俗化secularizationの過程が進み、デカルト的懐疑が必然的に進行を奪ったため、個体の生命は、もはや不死ではなくなり、少なくとも、不死の確かさを失った。このようなことが起こらなかったとしたら、〈労働する動物〉の勝利はけっして完成しなかったであろう。要するに個体の生命、古代と同じようにふたたび死すべきものとなったのである。しかも世界worldはキリスト教時代のよりも安定性と永続性を欠き、したがって一層信頼できないものとなった。近代人modern peopleは、来世の確かさを失ったとき、自分自身に投げ返されたのであって、世界に投げ返されたのではなかった。彼らは世界が潜在的に不死であるということを信じるどころか、世界が現実的なるものであることにさえ確信がもてなかった。たしかに近代人は、着実に進歩する科学の見るからに悩みのない無批判的なオプティミズムoptimismによって、世界は現実的であると仮定できる。その限りで彼らは、デカルト的超世界性が連れ去った地点よりももっと地球から遠い地点に移動した。「世俗的secular」といういう言葉が一般的に使わされた場合なにを意味しているにせよ、歴史的にそれは世界性worldlinessと同じものではありえない。いずれにせよ、近代人は来世を失ったとき、その代わりに、この世界を手に入れたのではなかった。そして厳密にいえば生命を手に入れたのでもなかった。彼らはただ、生命に投げ返され、内省inner reflectionの閉鎖的closedな内部志向性inner directednessの中に投げ入れらたのである。内省において近代人が経験できた最高のものは、精神が計算するという空虚emptyな過程であり、精神が精神を相手にする戯れであった。そこに残された唯一の内容は、食欲と欲望にすぎなかった。そして近代人は、この肉体の無分別な衝動impulseを情熱passionだと誤解し、それは明らかに「推測するreason」ことができない、つまり計算することができないものであるから、「非理性的irrational」なものと考えたのである。今や、古代における政治体、中世における個体の生命と同じように、潜在的に不死でありうる唯一のものは、生命そのものであり、種としてのヒトの永遠の生命過程であった。
【pp.497-498】

たしかに近代人は、着実に進歩する科学の見るからに悩みのない無批判的なオプティミズムoptimismによって、世界は現実的であると仮定できる。その 限りで彼らは、デカルト的超世界性が連れ去った地点よりももっと地球から遠い地点に移動した。「世俗的secular」といういう言葉が一般的に使わされ た場合なにを意味しているにせよ、歴史的にそれは世界性worldlinessと同じものではありえない。

内省において近代人が経験できた最高のものは、精神が計算するという空虚emptyな過程であり、精神が精神を相手にする戯れであった。そこに残された唯一の内容は、食欲と欲望にすぎなかった。

そして近代人は、この肉体の無分別な衝動impulseを情熱passionだと誤解し、それは明らかに「推測するreason」ことができない、つまり計算することができないものであるから、「非理性的irrational」なものと考えたのである。

 社会化されたsocialized人間というのは、ただ一つの利害an interestだけが支配するような社会状態のことであり、この利害の主体は階級かヒトであって、一人の人間でもなければ多数の人びとでもない。肝心な点は、今や人びとが行っていた活動の最後の痕跡、つまり自己利益に含まれていた動機さえ消滅したというこである。残されたものは「自然力」、つまり生命過程そのものの力であって、すべての人、すべての人間的活動力は、等しくその力に屈服した(「思考過程そのものが自然過程である」マルクス)。
【p.498】

 たとえば、思考thinkingは、「結果を計算に入れる」ものになったとき、頭脳の一機能となった。その結果、電子計算機の方が私たちよりももっとうまくこのような機能を果たすと考えられている。活動actionは、ただちになによりもまず製作productionの観点から理解されるようになり、今でもそうである。ただ製作だけは、世界性worldlinessをもっており、本来的な生命に無関心である。しかし、今やそれもただ労働の別の形式として見られ、複雑ではあるがそれほど神秘的ではない生命過程の機能として見られるようになった。
【p.499】

 労働社会の最終段階である賃仕事人の社会は、そのメンバーに純粋に自動的な機能の働きを要求する。それはあたかも、個体の生命が本当に種の総合的な生命過程の中に浸されたかのようであり、個体が自分から積極的に決定しなければならないのは、ただその個別的ーまだ個体として感じる生きることの苦痛と困難ーをいわば放棄するということだけであり、行動の幻惑され「鎮静された」機能的タイプに黙従することだけであるかのようである。
【p.500】

 もっとも重大で危険な兆候がある。それは、人間がダーウィン以来、自分たちの祖先だと想像しているような動物種に自ら進んで退化しようとし、そして実際にそうなりかかっているということである。要するに、もう一度アルキメデスの点の発見に戻り、その発見を ー カフカはそうしないようにと私たちに警告したのであるが — 人間自身と人間がこの地上で行っている事柄に応用するとどうなるだろう。
【p.500】

 要するに、私たちは常に地球の外部にある宇宙の一点から自然を操作しているのである。もちろん、私たちは、アルキメデスが立ちたいと願った地点に実際に立っているわけではないし、依然として人間の条件によって地球に拘束されている。しかし、私たちは、地球の上に立ち、地球の自然の内部にいながら、地球を地球の外のアルキメデスの点から自由に扱う方法を発見したのである。そしてあえて自然の生命過程を危険に陥れてまで、地球を自然界とは無縁な宇宙の力に曝しているのである。
【p.421】

人間関係の網の目の中へと活動するもので、
活動の暴露的性格をもち、
さらに物語を生みだして、それを歴史とする能力をそなえる。
(【p.503】の文章を書き直した。)
これらの性格や能力こそ、人間存在に意味を与え、それを照らす源泉そのものを形成するのである。この実存的に最も重要な側面においても、活動は特権的な少数者の経験となっている。そして当然のことながら、活動することの意味をまだ知っているこれらの少数者は、芸術家よりも数が少なく、その経験は、世界の本当の経験、世界にたいする本当の愛loveよりもさらにまれである。
【p.503】

 生きた経験としての思考は、これまでずっと、ただ少数者にのみ知られている経験であると考えられてきた。しかし、これはおそらくまちがいだろう。そしてこれらの少数者の数が現代でもそれほど減ってはいないと信じてもさしつかえないだろう。この問題は、世界の将来に関係がなく、関係があるといしても限られたものである。しかし、人間の将来にとっては関連がなくはない。活動的であることの経験だけが、また純粋な活動力の尺度だけが、〈活動的生活〉内部のさまざまな活動力に用いられるものであるとするならば、思考は当然それらの活動力よりもすぐれているだろう。この点でなんらかの経験をしている人なら、カトーの次のような言葉がいかに正しかったか判るであろう。「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない。」
【p.504】 

参照【「人間の条件」ハンナ・アレント著,ちくま学芸文庫】

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