Saturday, July 12, 2008

存在 - being

「存在」や「〜である」という日本語は現在ではあたりまえだが、これもまた日本の翻訳語。

----

Je pense, donc je suis. つまり英語で言えば、
I think therefore I am. は、日本語では、
私は考える、だから私はある。というように翻訳され、「ある」という表現になっている。
【p.120】

簡単に図式化すれば、
suis→存在する→ある
という、いわば二段階の翻訳の過程をたどっているのである。この矢印の方向は、一方通行であって、逆の方向の思考の働きはない。
【p.121】

「ある」という一見やさしい、日常語風のことば使いは、実は日常語の文脈のルールに従って使われているのではなく、西欧語から翻訳用日本語へ、さらにその翻訳用日本語からの翻訳、という経路で天降ってきたのである。哲学の専門家にとっては、表面上「ある」とは言われていても、その頭の中では、suisなどの横文字と、その翻訳語「存在する」が働いており、そのことばで考えている。「ある」で考えているのではない。だからこそ、「私はある」ということば使いのおかしさが、これまで全く見過ごされてきたのである。
【p.122】

 デカルトの『方法序説』で、前掲文の少し後のところでは、このje suisということを、mon étre(私のétre)と言い換え、そのことからまた、Étre parfait(完全なétre、つまり神)を考える。ここでは、suisの名詞形étreの方が、思考の中心になる。そしてまた、このétreは、名詞であるとともに、suisなどの変化形の原形として、動詞でもある。だから、名詞中心に考えながらも、それを時に動詞表現に言い換え、名詞表現と動詞表現との間を、容易に思考が往復できる。
【p.122】

 この翻訳用日本語は、確かに便利であった。が、それを十分に認めた上で、この利点の反面を見逃してはならない。と私は考えるのである。つまり、翻訳に適した漢字中心の表現は、他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日本語表現を置き去りにし、切り捨ててきた、ということである。そのために、たとえば日本の哲学は、私たちの日常に生きている意味を置き去りにし、切り捨ててきた。日常ふつうに生きている意味から、哲学などの学問を組み立ててこなかった、ということである。それは、まさしく、今から350年ほど前、ラテン語ではなくてフランス語で『方法序説』を描いたデカルトの試みの基本的態度と相反するのであり、さらに言えば、ソクラテス以来の西欧哲学の基本的態度と相反するのである。
【p.124】

参照【「翻訳語成立事情」柳父 章著】

No comments: