Sunday, July 20, 2008

自由 - liberty, freedom

日本語の「自由」では「自由」がわからないことについて。



 「自由」ということばは、正しく理解されればいい意味であり、「はき違え」て理解されれば悪い意味になる、というように、私たちは漠然と考えがちであるが、そうではない。と私は考える。問題は、理解の仕方にあるのではない。母国語の中に深い根をおろして歴史を担っていることばは、「はき違え」ようがないのである。
 「はき違え」られている「自由」は、翻訳語「自由」である。
 近代以後の私たちの「自由」ということばにも、英語で言えばfreedomやlibertyのような西洋語の翻訳語としての意味と、伝来の漢字のことば「自由」の意味が混在しているのである。
【p.177】

 幕末の頃、オランダのジャワ総督から幕府に提出された文書の日本語訳に、「大千世界いやましに我ままに成りゆき候形勢これあり」という文句があった。「我まま」とは、オランダ語のvrijhidで、英語で言えばlibertyやfreedomの翻訳語である。この文面を見て、幕府の役人のうちには、これは掠奪をほしいままにするという意味だ、外国人に近づいてはならない、と考える者が多かった、という。
【p.178】

 以上の用例でみると、キリシタン文献に見えるものは別として、自由といふことばには、法令上の用語としてはいふまでもなく、その他のでも、何ほどか非難されるような意義の含まれているものの多いことが、知られるやうである。拘束をうけないといふばあひのでも、その多くは、社会的制約の外に立つといふ点で気ままな、もしくは我がままな、気分があるから、一般人の生活態度としては承認しがたいものである。思うままにするという意義でのでも、他人に関し世間に関することがらについていふばあいには、やはり同様である。よい意義でいはれている例もあるが、それは少ない。フクザハの西洋事情に、リバチイまたはフリイダムにはまだ適当な訳語がないといい、さうして試みに挙げたもののうちの一つには「自由」があるが、それについて、原語は我儘放蕩で国法をも恐れぬという意義の語ではない、とわざわざことわってあることも、思い出されよう。自由は実は適切な訳語でないようである。
(「訳語から起る誤解」津田左右吉著, 1956年)
 ここで、あのvrijhidを「我まま」と翻訳した例に帰って言えば、英語で言うfreedomやlibertyを「自由」と翻訳したことと、それほどの違いはない、ということになるわけである。
【pp.179-180】

 かつてルソーは、「人間は自由なlibreものとして生まれた、しかもいたるところで鎖に繋がれている」と、『社会契約論』(1762年)の冒頭に書いた。この文句は、やがて西欧の至る所で、人々の心を燃え立たせたのである。東洋や日本にも、圧政に反抗する運動はもちろんいろいろとあった。しかし、そのことを、「鎖」から解き放たれるということだけでなく、積極的に求めるべき価値として、人間の内部にある観念としてとらえることばがなかったのである。
【p.182】

libertyやfreedomの訳には、いろいろなことばが試されていたようだ。
自主
自在
不覊
寛弘
など。

 しかし、それにしても、なぜ「自由」が勝ち残ったのであろうか。たとえば、これまで見てきた幕末ー明治初期における翻訳のさまざまな試み、「自主」「自在」「不覊」「寛弘」などと比べて、「自由」のほうがよいと言う理由は乏しいように思う。むしろ、「自主」「自在」「不覊」「寛弘」などは、「自由」のもつ語感を避けて選ばれた、とも見える。少なくとも、悪い意味の語感を持っていないという点では、「自由」よりもふさわしかった、と思われる。その点、漢字・漢籍に通じた当時の知識人たちは、よく心得ていたはずであろう。
【p.186】

 翻訳語は、元来一つの言語体系、文化の意味の体系の中に位置づけられていたことばを、その体系から切り離して取り出されたものがもとになっている。だから、切り離されたことばとしての翻訳語だけを眺めても、そのもとの意味はなかなか分らないのが当然である。
 しかし、およそ物事は、すっかり意味が分った後に受け入れられる、とは限らない。とにかく受け入れ、しかる後に、次第にその意味を理解していく、という受け取り方もある。私たちの翻訳語は、端的に言えば、そのような機能をもったことばなのである。
【p.190】

参照【「翻訳語成立事情」柳父 章著,岩波新書】

No comments: