しかし、もともとの日本語には、aethetic, common sense, imagination, understanding, reasoning, judgementなどに対応することばがなかったので、新しい翻訳語があてられている。
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「これは美しい」と言うとき、われわれは単に「これは好ましい」と言っているのではない。われわれはある種の客観性objectivity、ある種の必然性inevitability、ある種の普遍性universalityを当然のものとして要求しているのである。だが、美的対象の純粋な表象representionは個別的である。つまり、美的判断aethetic judgementの客観性objectivityは概念conceptを欠いている。あるいは(同じことだが)、その必然性と普遍性は主観的である。一定の概念(幾何学図形、生物学上の種、合理的な観念)が介入するたびごとに、美は自由であることを止め、同時に美的判断も純粋であることを止める。感情能力は、その高次の形態においては、思弁的関心にも、実践的関心にも依存することはできない。それゆえに、美的判断において普遍的で必然的なものとして提示されるものは、ただの快pleasureに過ぎないのである。われわれは、自分たちが感じる快が、権利上、伝達可能で、万人に妥当なものであると仮定し、だれもがそれを感じるはずだと推測するreason about。
【p.100】
構想力imaginationは、ここでは、「概念conceptなしで図式化しているrepresent graphically」、と。しかし、図式化作用とは、常に、もやは自由でない構想力、悟性概念に即して働くように規定された構想力の行為である。ということは、実のところ、構想力はここでは図式化とは別のことを行っているのである。構想力は対象の形式を反省することで自らの最も深い自由を表し、「形象の観察において、いわば、戯れている」のであり、「可能的直観の恣意的arbitraryな諸形態の原因としての」産出的で自発的な構想力になるのである。これがつまり、自由なものとしての構想力imaginationと、無規定なものとしての悟性understandingとの一致conformである。これが、諸能力間の、それ自身で自由で無規定な一致である。この一致について、それは本来的な意味で美的な共通感覚common sense(趣味taste)を明示するものであると言わねばならない。実際、われわれが、伝達可能で、万人に妥当なものであると規定している快pleasureは、この一致の結果以外の何ものでもない。構想力と悟性の自由な戯れは、一定の概念のもとで起こることではないので、知的に認識されることはなく、ただ感じられるだけである。したがって、「感情の伝達可能性」(概念の媒介を経ないそれ)というわれわれの仮定は、諸能力の主観的一致という理念に基づいているのだが、但しそれも、この一致そのものがひとつの共通感覚を形づくっている限りにおいてのことである。
美的共通感覚aethetic common senseは、先行する二つの共通感覚を補うものだと考える人もいるかもしれない。論理的logicalな共通感覚と、道徳的moralな共通感覚の場合では、あるときは悟性が、あるときは理性が、立法行為legislationを行い、他の能力の機能を規定している。ここではその役を引き受けるのが構想力imaginationなのだ、と。だが、事態はそのようではありえない。感情能力は対象にたいして立法行為を行うのではない。したがって、感情emotional能力の中には、立法的な能力(この語の第二の意味におけるそれ)は存在しない。美的共通感覚が、諸能力の客観的一致を表彰することはない。(言い換えれば、支配的能力への対象の従属、かかる対象に関して他の能力が果たすべき役割を同時に規定するような能力への対象の従属を表象することはない)。それは、構想力imaginationと悟性understandingがそれぞれ自分のために自発的に働く際の純粋な主観的subjective調和を表象する。したがって、美的共通感覚は他の二つの共通感覚を補うのではない。むしろそれらを基礎付ける、あるいは、可能にするのである。仮にすべての能力の間で最初からこの自由な主観的調和が可能でなかったなら、どれかひとつの能力が立法的で規定的な能力を担うこともなかっただろう。
【pp.101-103】
参照【「カントの批判哲学」ジル・ドゥルーズ著,國分功一郎訳】
【p.100】
構想力imaginationは、ここでは、「概念conceptなしで図式化しているrepresent graphically」、と。しかし、図式化作用とは、常に、もやは自由でない構想力、悟性概念に即して働くように規定された構想力の行為である。ということは、実のところ、構想力はここでは図式化とは別のことを行っているのである。構想力は対象の形式を反省することで自らの最も深い自由を表し、「形象の観察において、いわば、戯れている」のであり、「可能的直観の恣意的arbitraryな諸形態の原因としての」産出的で自発的な構想力になるのである。これがつまり、自由なものとしての構想力imaginationと、無規定なものとしての悟性understandingとの一致conformである。これが、諸能力間の、それ自身で自由で無規定な一致である。この一致について、それは本来的な意味で美的な共通感覚common sense(趣味taste)を明示するものであると言わねばならない。実際、われわれが、伝達可能で、万人に妥当なものであると規定している快pleasureは、この一致の結果以外の何ものでもない。構想力と悟性の自由な戯れは、一定の概念のもとで起こることではないので、知的に認識されることはなく、ただ感じられるだけである。したがって、「感情の伝達可能性」(概念の媒介を経ないそれ)というわれわれの仮定は、諸能力の主観的一致という理念に基づいているのだが、但しそれも、この一致そのものがひとつの共通感覚を形づくっている限りにおいてのことである。
美的共通感覚aethetic common senseは、先行する二つの共通感覚を補うものだと考える人もいるかもしれない。論理的logicalな共通感覚と、道徳的moralな共通感覚の場合では、あるときは悟性が、あるときは理性が、立法行為legislationを行い、他の能力の機能を規定している。ここではその役を引き受けるのが構想力imaginationなのだ、と。だが、事態はそのようではありえない。感情能力は対象にたいして立法行為を行うのではない。したがって、感情emotional能力の中には、立法的な能力(この語の第二の意味におけるそれ)は存在しない。美的共通感覚が、諸能力の客観的一致を表彰することはない。(言い換えれば、支配的能力への対象の従属、かかる対象に関して他の能力が果たすべき役割を同時に規定するような能力への対象の従属を表象することはない)。それは、構想力imaginationと悟性understandingがそれぞれ自分のために自発的に働く際の純粋な主観的subjective調和を表象する。したがって、美的共通感覚は他の二つの共通感覚を補うのではない。むしろそれらを基礎付ける、あるいは、可能にするのである。仮にすべての能力の間で最初からこの自由な主観的調和が可能でなかったなら、どれかひとつの能力が立法的で規定的な能力を担うこともなかっただろう。
【pp.101-103】
参照【「カントの批判哲学」ジル・ドゥルーズ著,國分功一郎訳】
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