Saturday, July 12, 2008

存在 - being (2)

日本語の「存在」はあえて意味を調べる必要あるとは思えない言葉だと感じるが、それはカセット効果が働いている翻訳語でしかない。ただ「存在」として翻訳語を眺めているだけでは、オリジナルの西欧語の文脈は知りえない。

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 神学theologyや哲学philosophy、形而上学metaphysicsが終わりに達したと考えることが実際何を意味しているのかを反省してみるのが懸命だろう。それはたしかに神が死んだということではない。それは神の存在beingについて知り得ないのと同じく我々の知り得ないようなことである。そうではなくて、数千年来、神について考えられてきた考え方がもはや説得的ではないということなのである。もし何かが死んだのなら、それが可能なのは神についての伝統的な考えだけである。同じよなことが哲学philosophyと形而上学metaphysicsの終演ということについても当てはまる。人間のこの世への登場と時を同じくする古来からの問題が「無意味」になったのではなく、その枠組みや答えの仕方が妥当性を失ったのである。

 終わってしまったは、感覚的なものと超感覚的なものとの基本的な区別である。この区別は、少なくともパルメニデス以来、感覚に与えられないものは — 神godであれ、存在beingであれ、第一原理かつ原因(archai)であれ、イデアideaであれ —、現象phenomenonするよりも実在的で、真実であり意味が深いものであり、感覚知覚を声出るだけでなく、感覚世界の上の方にあるのだという考えと一緒になっているのだが、これが終わったのである。「死んで」いるのはこのような「永遠の真理」の限定ということだけではなく、区別そのものなのである。
【p.13】

 デモクリトスによって、超感覚的なものの器官である精神と感覚との間の小対話で、これ以上ないほど単純明快に予言的に行われている。精神が言う。
「感覚知覚は幻影だ。それは身体の条件によって変化するからだ。甘さ、苦さ、色などというものは、人間の取り決めによって(nomō)存在するのであって、現象の背後にある真の自然によって(physei)いるのではないのだ」と。これに対して、感覚は答える。
「哀れな精神よ!お前は、証拠[pisteis,信用できるものすべて]を私たちからとっておきながら我々を打ち倒そうというのか。我々を打倒すればお前が滅亡することになるぞ」。
言いかえれば、一旦、これまでいつも周到に保たれてきた二つの世界のバランスが失われてしまうと、「真の世界」が「仮象の世界」を絶滅しようと、その反対であろうと、我々がの思考がつねづね依拠してきた枠組み全体が崩壊していく。そのように見ると、何ももう大した意味がないかのように見えるだろう。
【p.14】

参照【「精神の生活」ハンナ・アレント著,岩波書店】

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