日本語の「美」と西欧語の「beauty」のギャップをあらためて考えるきっかけになった。
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「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」(『当麻』1942年)とは、小林秀雄の有名な命題であるが、確かに、かつて私たちの国では、花の美しさというように、抽象概念によって美しいものをとらえようとする言い方も乏しく、したがってそのような考え方もほとんどなかった。花の美しさ、というようなことばや考え方を私たちに教えてくれたのは、やはり西欧舶来のことばであり、その翻訳語だったのである。
【p.67】
たとえば、日本の伝統的美意識とか、世阿弥の美学、というような言い方がよく聞かれるが、このような問題のたて方は、自ずと翻訳的思考法をすべり込ませている、ということに注意したいと思う。なぜか。きわめて簡単明瞭なことなのであるが、近代以前、日本では、「美」ということばで、今日私たちが考えるような「美」の意味を語ったことばなかったからである。beautyやbeautéやschöheitなどは、西欧の詩人や画家などが、作品を具体的に制作する過程で、立ち止まって考えるときに口にすることばなのである。世阿弥や芭蕉は、当然こういう西欧語を知らず、従ってその意味を知らなかった。つまりその翻訳語である「美」を知らなかったのである。
【p.69】
世阿弥の「花」や「幽玄」、利休の「わび」、芭蕉の「風雅」や「さび」、
本居宣長の「もののあはれ」なども、一応同じような例として考えられるのである。これがおことばには、西欧美学の「美」と共通するところもかなりある。
【p.69】
いずれも、舶来の「美」よりもはるかに具体的で、これでは観念を語っていると言うのさえむずかしいくらいである。
もちろん、いかに具体的な体験を重視しているとは言っても、「わび」とか「風雅」とか「あはれ」というように、名詞の形で、ある究極の境地をとらえた、ということはやはり重要であろう。その限り、「美」と共通するところはある、と言わなければならない。これらのことばによって、いわば芸術の理想にも対応するような価値観が語られ、その道の人々の精神を支えたのである。
しかし、私がすでにのべたような、違っている、という面もはやり重要である。そしてこの違いは、日本的「美」意識の特殊性とか、西欧の「美」と日本の「美」との違い、というように、「美」を前提としてとらえてはならない、と私は考える。少なくとも基本的な態度として、一つの普遍的な観念としての「美」を先に立て、その特殊な場合として日本的「美」がある。という思考方法は間違いである、と私は考えるのである。
【p.72】
およそことばの意味は、「哲学者及審美学者」がきめるのではない。ことばが先にあって、その日常的意味をもとにして、「哲学者及審美学者」は、これをつごうによって中傷し、限定して使うのである。しかし、この限定された意味を、翻訳語として受けとめ、従って、完成された意味として受け取ることの多い日本では、この順序はとかく逆転して理解されがちである。
【p.78】
レヴィ・ストロースはアマゾンの部族(ナムビクワラ族)をフィールワークしたとき、その酋長は自分だけが白人と文字によって通じていることを、部族の他の人々の知らしめることをしたという経験をし、それに基づいて考えた。
レヴィ・ストロースは、およそ文字というものについて考え、それは権力的支配の道具である、と言う。鋭い文明批評である。たしかに、私たちの国でも、たとえば出土するかつての支配者の剣などに、きっと文字が刻まれているのを見出す。文字を刻んだ人たちじしん、必ずしもその意味を知ってはいなかったことは、鏡文字といって、左右が逆の書き方が時おり見つかることでも分る。その文字は、意味によるよりも、まずその「くねくねとした」不可解な形によって人々を惹きつけ、貴重であるとされ、独占されたのである。
こういう歴史的体験を、いわば生物学で言う系統発生とすれば、外国から文字を受容したという私たち民族の経験は、あたかもその個体発生のように、今日でも、日本人の一人一人の翻訳語体験のうちに生きている、と私は考える。
「美」ということばは、今日の教養ある人々にとっても、どこか分りにくい。だが重要なのは、それが日本語として語られる以前に存在していることば、翻訳語である、ということである。「美」について、考えれば分ると思っている人も、翻訳語固有のこういう効果を免れることはむずかしい。
三島由紀夫の「美」のトリックは、こういう背景のもとに成り立っている。小説の中で「美」は、不意打ちにのように、説明抜きに現れてくる。しかもだいじなところに現れて、重要な働きをしている。他方、三島は、小説の読者はこちらも読むであろうという予測のもとに、「美」からその意味を抜きとるような発言を、評論文などでしておく。こうして翻訳語固有の「カセット効果★」は利用され、かつ人為的につくりだされている。三島は、あたかもナムビクワラ族のあの酋長のようにふるまい、お芝居を演じ、読者に対して、優越していると見せかけた立場から、このことばの効果を操作しているのである。
【pp.85-86】
参照【「翻訳語成立事情」柳父 章著,岩波新書】
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ここで重要なことは、こういう「四角張った文字」の意味が、原語のindividualに等しくなるのではない、ということである。これらのことばはいくら眺めても、考えても、individualの意味は出てこない。だが、こういう新しい文字の、いわば向こう側に、individualの意味があるのだ、という約束がおかれることになる。が、それは翻訳者が勝手においた約束であるから、多数の読者には、やはり分らない。分らないのだが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よく分らないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。
日本語における漢字の持つこういう効果を、私は「カセット効果」と名づけている。カセットcassetteとは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。「社会」も「個人」も、かつてこの「カセット効果」をもつことばであったし、程度の差こそあれ、今日の私たちにとってもそうだ、と私は考えている。
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日本では、早い段階から大衆化社会がつくられてきており、翻訳語のトリックはマスメディアによって一般化されてきているのだろうか。
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