永劫回帰はドイツ語のdie ewige Wiederkunftの翻訳語。eternal recurrenceはその英訳。
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「永劫回帰の思想は史的事件をすら大量生産品にする。しかしまたこの概念は別の観点から見ると—その裏面にと言ってよいであろうが—経済的状況の痕跡をとどめている。この概念はその唐突な現実性を経済的状況に負うのである。この現実性は、生活環境の確実性が危機の急速な継起によってはなはだしく低減した瞬間にあらわれた。永劫回帰の思想は、永遠が裁量するよりも短い期間に同じ環境が回帰することはもやはけっして期待できないことから、その栄光を獲得したのである。日常的な諸状況の回帰はきわめて緩慢にではあったがいささか稀になっていた。そのために、宇宙的な星座の回帰で満足しなければならないという漠然とした予感が蠢動していたのであろう。要するに、習慣はその機能のいくつかを放棄しはじめていた。「わたしは短い習慣をこのむ」とニーチェは言っている、そして、ボードレールがすでにその生涯にわたって確固とした習慣を発展させることができなかったのである。」(「セントラル・パーク」)
「永劫回帰は幸福の二律背反的な二原理、すなわち、永遠の原理と〈いまいちど〉の原理とをむすびあわせようとする試みである。—永劫回帰の観念は時代の悲惨のなかから幸福の思弁的観念(もしくは幻覚形象)を喚起する。ニーチェのヒロイズムは、俗物の悲惨のなかから近代の幻覚形象を喚起するボードレールのヒロイズムの対蹠物である。」
【pp.179-180】
ベンヤミンがここで強く批判の対象としてたたかっているのは、”永劫回帰”の概念と一枚の楯の裏表の関係にある”進歩”ないし”連続性”の概念である。彼は、いわゆる文化史の不毛性を次のように批判する。
「要するに、見せかけだけは洞察の推進力を記述しても、弁証法の推進力は見せかけですらも記述しない。なぜなら文化史には、破壊的要素が欠けており、この破壊的要素が弁証法的思考と弁証法論者の経験を確かな根拠のあるものとして保証するのである。たしかに文化史は人類の背中に堆積する財宝の重荷を増加させる。しかし文化史はその財宝を手に入れるために、それを振り落す力を人類に与えない。同様なことが、文化史を導きの星にした、世紀の変わり目の社会主義的教育活動について言える。」
【p.181】
「破局の概念の下に実現するような歴史過程は、じつは思考する人間を、子供が手にもって遊ぶ万華鏡以上にあてにするわけにはいかない。万華鏡を廻せば、秩序づけられていた像は崩れてふたたび新しい秩序をかたちづくる。その像にもそれなりの理由がある。支配層の手中にある諸概念はつねにひとつの〈秩序〉の像を映し出してみせた鏡であった。万華鏡は打ち砕かねばならない。」(「セントラル・パーク」)
【p.182】
つまり、万華鏡は打ち砕かねばならぬということは、同時に、かつてそういう万華鏡を手にして遊んだ子供であった自分をもまた打ち砕かねばならぬという強烈な自己否定の意志と情熱に裏打ちされてでてくる言葉にほかならないのだ。ベンヤミンの文章には、つねに謎めいた、熱気あふれる暗い情熱が感じられるが、ほかならぬその暗いパトスが、いまなお歴史の大きな変動期に身をおいて、わが身を二つに引き裂かれるような内的・外的体験をくり返さなければならない私の心に衝動を与えるのである。
【p.183】
「複製技術に関わりを持つことが、他の研究方向ではほとんどできないような、受容の決定的な意味を解明する。そのやり方によれば芸術作品に生じる物化materializationの過程をある程度の限度内で補正することが可能になる。大衆芸術の考察は天才概念の修正に導く。この考察は、芸術作品の生成にあずかる霊感inspiretionに注意を奪われて、その霊感をして実りあらしめることを可能にする唯一のものである事実を見逃さぬようにとうながす。図像学的解釈iconologyは結合受容と大衆芸術の研究にとって不可欠なものとして現れるだけではない。それはなににもまして、あらゆる形式主義がただぢにそこへ誤り導くことになる侵害を妨げる。」
【p.184】
複製技術の発展にともなって、芸術では展示価値が高まり、作品は大衆の眼のすぐ間近まで近づけられた。こうして、作品をじっと見つめ、同時に作品から見つめ返されるという、熱っぽい視線の交換から生じてくるアウラは消滅した。しかし、はたしてベンヤミンはアウラの消滅を双手をあげて歓迎し、謳歌しているのであろうか。それとも、アウラの消滅の必然性をはっきり認識しながらも、同時に消え行くアウラに憂愁にみちた別離の眼差しを送っているのだろうか。
複製芸術にたいするこうしたアンビヴァレンツは、ひとつには、複製芸術作品をすべて商品として大衆に提供する現代社会の機構が、芸術作品の物化を極度に押し進めているっことから生じてくるのであり、二つには、かつてのアウラ的芸術鑑賞においては、作品は観者から隔離されていることによって、蔑視され、凝視によって逆に作品は観者の魂に近づけられたのに反し、複製技術は作品と観者との距離を抹殺することによって、観者を「散漫な試験管」にし、逆に作品を観者の魂から遠ざける作用をする、という逆説が、今日依然として未解説の問題として残されていることから生じてくるのである。
”複製技術の領域において迫り来る巨大な諸発明に関するひとつの夢としての永劫回帰の教義”という謎めいた一句が、「セントラル・パーク」のなかに見出される。永劫回帰の夢をベンヤミンがどういうものとして見ていたかは、すでに先に引用したアフォリズムによって明らかだろう。芸術へのテクノロジーの新しい適用に有頂天になっている現代のモダニストたちは、「時代の悲惨のなかから幸福の思弁的観念(もしくは幻覚形象)を喚起する」ことにやっきになっている永劫回帰論者、言い換えれば、革新者の体裁をした現状維持論者にほかならないのではなかろうか。そういうモダニストたちにたいして、共産主義は、芸術の政治化をもってこたえるであろう、という言葉は、(「政治」とならべて「技術」という言葉を補い、「ファシズム」とならべて「モダニズム」という言葉を補うならば)今日なお決然たる挑戦宣言であることをやめていない。
【pp.185-187】
参照【「複製技術時代の芸術」ヴァルター・ベンヤミン著,佐々木基一編集解説より「解説」】
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