都市を考えるうえで言葉の問題を理解しておくことからはじめようと思う.kuriyama
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現在は社会という言葉をあたりまえに使っているが。それは明治時代にsocietyに対応する日本語がなかったために、訳語がつくられ定着した。
society
(1)仲間の人々との結びつき、とくに、友人どうしの、親しみのこもった結びつき、仲間同士の集まり。
(2)同じ種類のもの動詞の結びつき、集まり、交際における生活様式、または生活条件。調和のとれた共存という目的や、互いの利益、防衛などのため、個人の集合体が用いている生活の組織、やり方。
『オックスフォード英語辞典』(OED,1933年)
【p.5】
当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、societyは、究極的には、この(2)でも述べられているように、個人individualを単位とする人間関係である。狭い意味でも広い意味でもそうである。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。
【p.6】
かつて、societyに相当する日本語はなかったのである。そして、societyに相当する伝来の日本語がたとえなくても、「社会」という翻訳語がいったん生まれると、societyと機械的に置き換えることが可能なことばとして、使用者はその意味について責任を免除されて使うことができるようになる。
【p.8】
「社」ということばで、同じ目的を持った人々の集まりや、その名前を指す使い方は、日本でも明治以前からあった。
【p.14】
『学問のすすめ』十七編にこういう一節がある。
彼の士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称す可きに似たれども、其これを求めると求めざるとを決するの前に、先ず栄誉の性質を詳らかにせざる可らず。其栄誉なるものはたして虚名の極度にして、医者の玄関、売薬の看版の如くならば、固より之を遠ざけ之を避く可きは論を俟たずといえども、又一方より見れば社会の人事は悉皆虚を以て成るものに非ず。人の知徳は猶花樹の如く、其栄誉人望は猶花の如し。
ここで「社会」は、次節で説明するように、引用文中の初めの方の「世間」と対立するような意味で使われており、広い範囲を指すsocietyの意味に近い、と言えよう。
【p.17】
「世間」ということばは、「社会」と違って、日本語としてすでに千年以上の歴史を持っている。
【p.19】
しかし、この「世間」を、societyの訳語として用いた例は、以外に稀である。そして、「社会」という翻訳語がいったん定着すると、これと対比的に、「世間」は、翻訳的な文章からほとんど退けられていく。このことから、逆に、私たちの翻訳語「社会」の持つ重要な特徴を、以上述べてきたようにとれえることができるのである。つまり、それは肯定的な価値をもっており、かつ意味内容は抽象的である、と。
【p.19】
意味内容が抽象的であるということは、意味が知識として入ってきて、具体的な用例が乏しいので、ことばの意味が乏しく、分かりにくい、ということがある。
そして翻訳語は、こうして意味が乏しいにもかかわらず、漠然と肯定的な、いい意味をもつとされるために、ある時期、盛んに乱用され、流行語となる。
【p.20】
造語された「社会」には、もとの「社」の語感も、「会」の語感も乏しい。このような翻訳造語「社会」には、societyとの意味のずれは、確かにほとんどない。が,共通部分もまた、ほとんどないのである。
【p.22】
文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈絡が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。
【p.22】
引用『翻訳語成立事情』柳父 章著、岩波新書。
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現在は社会という言葉をあたりまえに使っているが。それは明治時代にsocietyに対応する日本語がなかったために、訳語がつくられ定着した。
society
(1)仲間の人々との結びつき、とくに、友人どうしの、親しみのこもった結びつき、仲間同士の集まり。
(2)同じ種類のもの動詞の結びつき、集まり、交際における生活様式、または生活条件。調和のとれた共存という目的や、互いの利益、防衛などのため、個人の集合体が用いている生活の組織、やり方。
『オックスフォード英語辞典』(OED,1933年)
【p.5】
当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、societyは、究極的には、この(2)でも述べられているように、個人individualを単位とする人間関係である。狭い意味でも広い意味でもそうである。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。
【p.6】
かつて、societyに相当する日本語はなかったのである。そして、societyに相当する伝来の日本語がたとえなくても、「社会」という翻訳語がいったん生まれると、societyと機械的に置き換えることが可能なことばとして、使用者はその意味について責任を免除されて使うことができるようになる。
【p.8】
「社」ということばで、同じ目的を持った人々の集まりや、その名前を指す使い方は、日本でも明治以前からあった。
【p.14】
『学問のすすめ』十七編にこういう一節がある。
彼の士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称す可きに似たれども、其これを求めると求めざるとを決するの前に、先ず栄誉の性質を詳らかにせざる可らず。其栄誉なるものはたして虚名の極度にして、医者の玄関、売薬の看版の如くならば、固より之を遠ざけ之を避く可きは論を俟たずといえども、又一方より見れば社会の人事は悉皆虚を以て成るものに非ず。人の知徳は猶花樹の如く、其栄誉人望は猶花の如し。
ここで「社会」は、次節で説明するように、引用文中の初めの方の「世間」と対立するような意味で使われており、広い範囲を指すsocietyの意味に近い、と言えよう。
【p.17】
「世間」ということばは、「社会」と違って、日本語としてすでに千年以上の歴史を持っている。
【p.19】
しかし、この「世間」を、societyの訳語として用いた例は、以外に稀である。そして、「社会」という翻訳語がいったん定着すると、これと対比的に、「世間」は、翻訳的な文章からほとんど退けられていく。このことから、逆に、私たちの翻訳語「社会」の持つ重要な特徴を、以上述べてきたようにとれえることができるのである。つまり、それは肯定的な価値をもっており、かつ意味内容は抽象的である、と。
【p.19】
意味内容が抽象的であるということは、意味が知識として入ってきて、具体的な用例が乏しいので、ことばの意味が乏しく、分かりにくい、ということがある。
そして翻訳語は、こうして意味が乏しいにもかかわらず、漠然と肯定的な、いい意味をもつとされるために、ある時期、盛んに乱用され、流行語となる。
【p.20】
造語された「社会」には、もとの「社」の語感も、「会」の語感も乏しい。このような翻訳造語「社会」には、societyとの意味のずれは、確かにほとんどない。が,共通部分もまた、ほとんどないのである。
【p.22】
文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈絡が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。
【p.22】
引用『翻訳語成立事情』柳父 章著、岩波新書。
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