譬えば訳書中に往々自由通義の時を用ひたること多しといえども、実は是等の訳字を以て原意を尽くすに足らず。
『西洋事情 二編』福沢諭吉著
rightの名詞には、大きく分けると、道徳的な正しさという意味と、右という意味と、今日言う「権利」の意味とがある。また、オランダ語のregtやフランス語のdroitには、英語のrightにはない法律というような意味もある。
pp.155-156
rightの法律上の意味、今日言う「権利」は、道徳上の正しさ、という意味を、少なくとも「正しさ」という意味では受け継いでいる。正当性とか、合法性などともいう。ところが、「権」ということばは、正しさとはむしろ正反対に対立する意味、力というような意味であった。
p.159
『和英語林集成』の初版(1867年)では、「権」はこうなっている。
Ken ケン 権 n.Power, authority, influence, ---wo furu, to show one's power,---wo toru, to hold the power, to have the authority, ---wo hatte mono wo iu, to talk assuming an air of authority.
すなわち、まずPower、つまり力という意味だったのである。
p.160
rightの訳語となっていった「権利」はどうであったか。1891(明治24)年の、大槻文彦の『言海』によると、
ケンリ 権利 身の分際にたもち居て、事に当たりて自ら処分することを得る権力。(義務と対す)
となっている。
pp.160-161
西欧近代におけるrightの意味を、はっきり自覚し、指摘したのは、十七世紀半ば頃のホッブスである。rightとlawについて、rightは、ある事をするかしないかの自由にあるのに対して、lawはそのどちらかに決定し、束縛する、と『レバイヤサン』の中で言っている。
この有名な指摘以来、rightは、古代以来の自然法にとって代わったのである。
p.161
自然法学は、明治期に入ってしばらく受け継がれていたが、明治十年代頃から、ヨーロッパで支配的となってきた法実証主義の法学が主流になった。この考え方によれば、rightは、権力に対して超越的な意味は持たない。rightは、法によって与えられる意思、あるいは利益のことである。この考え方によっても、法によって与えられる力、と言えないこともないが、少なくとも第一には、力ではないのである。
p.162
西周は、どうしてregtを、「権」というずれた意味の、誤解しやすいことばで翻訳したのだろうか。
西は、この翻訳をするときregtを、当時すでに刊行され、読まれていたWilliam Martinの、漢訳「万国公法」を参考にした、と述べている。そこではすでに、「権」という翻訳語が使われていたのである。
p.163
この「権」には、その伝来の意味、力というような意味と、その翻訳語としてのrightの意味とが混在している。
p.168
「民権」ということばは、どうも誤解されていたのではないか、と思う。やはり二つの意味が混在し、その混在に気づかずに使われていたようであった。
それは1872(明治五)年の、中村正直の『自由之理』から始まっていた。同書の最初の章の見出しに、「往古君民権を争う」とある。つまり、一つの「権」を、「君」と「民」とが争ってきたと理解していた、と考えられるのである。さらに本文中に、
問ふ然らば人民自主の権と、政府管轄の権と、この二者の間に如何なる処置を為て、和調適当なるを得べきや。
とある。ここで「人民自主の権」と「政府管轄の権」とに対応する原文のことばはindividual independenceとsocial controlとである。その意味からして、rightとpowerとに相当する、と言えるが、とにかくこれを、中村が、一つの「権」における「人民自主」と「政府管轄」との対立、としてとらえていることに注目したい。
pp.168-169
民権家たちは、政府の「権」に対して、自分たちもまた、本質的にはそれと等しい「権」を求めた。例えば、民権家たちの求めたのは、まず参政権など政府にあずかる「権」であった。基本的人「権」のような「権」はあまり問題にされなかった。
そして、求められていたのがrightであるよりも多分に「力」であったために、それは比較的容易に理解され、支持された。とくに旧士族たちを惹きつけたであろう。
このことは、おそらく弱点にも係わっている。運動がやがて「権」によって弾圧されたとき、運動家たちの「権」もまた見失われてしまった。あるいは、参政「権」が、曲がりなりにも明治憲法によって与えられたとき、そkにはまだ実現されていない「権」を見失った。rightとは、元来抽象的な、目に見えない観念であって、たとえ具体的な運動は潰されても、それとは別に人々の精神のうちに残っていくはずである。
p.171
rightとか、福沢諭吉の「通義」が、道徳的な正しさと意味の繋がりを保っているのに対して、私たちの「権」には、どこか、力づくの、押しつけがましさ、というような語感がぬぐい切れない。たとえば、日常このことばを口にすると、とかく話がきゅうくつになりがちである。この語感は、日常のいろいろなところで、このことばの具体的表現の中に生きつづけている、と私は考える。
p.172
参照【「翻訳語成立事情」柳父 章 著、岩波新書】
Friday, August 15, 2008
Tuesday, August 12, 2008
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参照【p.291, 人間の条件,ハンナ・アレント著,筑摩文庫】
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